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映画と建築とフィールドワーク:前川國男と素材の変遷——4つの建物を歩いて

はじめに:ラースローの問いを、東京に持ち込む

前回、映画『ブルータリスト』を通じて、ブルータリズムを自分なりに定義してみました。

ブルータリズムとは、モダニズムが極まった先にある様式である。歴史的な装飾を捨てたモダニズムがさらに進み、装飾どころかロマンすら削ぎ落とした。残ったのは「構造」だけ。素材を剥き出しにし、コンクリートの質感を主役に据える。
語源はフランス語の「ベトン・ブリュット(生のコンクリート)」つまり、「生の、飾らない素材」そのものです。

そして、主人公ラースロー・トートの言葉

「戦争が起きた。それでも、知る限りにおいて、私のプロジェクトの多くが生き残った。今も都市の中に存在している」

構造こそが存在の証明。特定の文化や宗教、歴史にも属さない、ただ「そこにある」という圧倒的な存在感。
それこそがブルータリズムの本質だと、映画を通じて理解しました。

では、同じ時代、日本はどうだったのでしょうか。 戦後の日本にも、ラースローと同じ問いに向き合っていた建築家がいました。前川國男という人物です。


前川國男とは何者か

前川國男(1905-1986)は戦後日本を代表する建築家のひとりで、東京文化会館や神奈川県立音楽堂など、今も現役で使われる公共建築を数多く残した人物です。

20世紀最大の建築家であり、ブルータリズムの源流でもあるル・コルビュジエ。そのアトリエで学ぶためフランスへ渡り、近代建築の理念を徹底的に叩き込まれて帰国しました。しかし、彼を待っていたのはあまりにも過酷な現実だったのです。

帰国後の日本には、鉄もガラスも、自由な資材などどこにもありませんでした。戦時中の資材統制と、敗戦直後の物資不足。コルビュジエのもとで学んだ「理念」と、日本の「現実」のギャップ。前川はその違和感を出発点に、形だけを輸入するのではなく、日本の素材、気候、そして産業の中でいかに近代建築を成立させるか、その方法を一から探り始めました。

しかしそれだけではありません。前川には、もっと深いところで抱えていた葛藤がありました。

コルビュジエの建築は、単体で見ると純粋で美しい。薄い壁、大きなガラス面、細い柱—構造がむき出しになった、飾り気のない空間。前川はその美しさを心の底から信じていました。

ただ、都市の中に置かれると、何かが変わる。

コルビュジエ的な白く純粋な空間は、時間の流れに万能ではありません。石やレンガは年月を経て味になる。しかし鉄とガラスとコンクリートの近代建築は、劣化するとただみすぼらしくなっていく。さらに都市のスケールで考えると、白い空間が増えるほど、建物と建物の間の街路や広場は無機質で殺伐としたものになりやすい。

前川はこの感覚を「寒々しい」という言葉で表現しています。コルビュジエの美しさへの純粋な傾倒と、その「寒々しさ」への違和感が、前川の中で共存していた。この二つの感情が、前川を「形の輸入」ではなく「方法の探求」へと向かわせた原動力だったのかもしれません。

建築史家・松隈洋氏は、著書『未完の建築 前川國男論・戦後編』(みすず書房、2024年)の中で、この姿勢を「テクニカル・アプローチ」と呼んでいます。素材と構造に正直であることを、日本の現実の中でいかに実現するか。その格闘の軌跡は、これから紹介する4つの建物に刻まれていました。


フィールドワーク:4つの建物を歩く

今回訪ねたのは、すべて前川國男の手による4つの建築です。時系列に並べて歩いてみると、「素材の変化」が物語のように見えてきます。

① 神奈川県立図書館・音楽堂(1954年) ——模索の始まり

横浜・紅葉ヶ丘に建つ、戦後の前川建築、最初期の代表作です。

外観を見て最初に感じたのは、「思ったより温かみがある」ということでした。正直、訪ねる前はもっと無骨で暗い建物を想像していました。コンクリート打放しの要塞のような、ブルータリズムらしい圧迫感を。

しかし実際に目の前に立つと、その印象は裏切られました。

ガラスの面積が広く、穴の空いたブロックが外壁に使われていて、光が室内に柔らかく注ぎ込まれている。コンクリートが素材として剥き出しになっていることは変わらないのに、「閉じた要塞」ではなく「光を迎え入れる建物」という印象を受けました。

率直に言うと、ブルータリズムというよりも、コルビュジエそのものに近い気がしました。 モダニズムの王道—白く、軽く、開放的。前川がフランスで叩き込まれた理念が、ストレートに表れている建物なのかもしれません。

松隈氏の同書によれば、この時期の前川はまだ「テクニカル・アプローチ」の模索の真っ只中にいました。コルビュジエから学んだものをそのまま移植するのではなく、日本の現実の中でいかに近代建築を成立させるか。その問いを抱えながら、まだ答えを見つけていない段階の建物です。

だからこそ、ここを出発点とします この建物を見た後に②③④を歩くと、前川が「コルビュジエの弟子」から「自分の建築」へと変わっていく過程が、建物から読み取れる気がします。

② 世田谷区役所(1960年) ——コンクリートの頂点

①から6年。東京・世田谷にあるこの建物の前に立った瞬間、空気感の変化に圧倒されました。

コンクリートが重く、剥き出しのままそこに鎮座している。

①で感じた「コルビュジエらしい軽やかさ」は完全に消えていました。第一弾で定義した「装飾を排し、構造を前面に出す」「圧倒的な異物感」というブルータリズムに、最も近いと感じたのがこの建物でした。ラースローが作ろうとしたものと同じ、ヒリつくような空気を感じました。まさに「ベトン・ブリュット」そのもの。

しかし、同時にある種の「息苦しさ」も感じてしまった。

コンクリートは確かに正直です。飾らず、素材のままをさらけ出している。しかし時間は容赦なくそれを汚し、劣化させる。ラースローは「ドナウ川の侵食に耐えるように設計されている」と豪語しましたが、素材そのものは本当に時間に勝てるのか。

この建物を実際に訪ねて、その問いがより切実になりました。今回回った4つの建物の中で、ここが最も保存状態が悪く見えたのです。コンクリートの表面は黒ずみ、経年の痕跡が生々しく刻まれていました。

さらに言えば、この建物と同時期に前川が設計した世田谷区役所本庁舎1期棟は、すでに取り壊されてビルになっています。(参照:東京新聞
ラースローが「今も都市の中に存在している」と言ったような意味での「生き残り」を、この時代の前川建築が果たせたかどうか、それは物理的な耐久性だけでなく、社会が「残したいと思うか」という問題でもあります。

コンクリートは、物理的にも社会的にも、時間に勝てなかったのかもしれない。

松隈氏によれば、この時期の前川事務所はまさに「方法論のゆらぎ」に直面していたといいます。構造の合理化だけでは、建築の美と人間性の問題は解けない。コンクリートを剥き出しにすることへの問い直しが、前川自身の中でも所員たちの中でも始まっていた時期です。

世田谷区役所は、コンクリートという素材への情熱が頂点に達した建物であると同時に、その限界点をも体現している建物に見えました。

③ 東京文化会館(1961年) ——転換点

上野公園の一角、西洋美術館の向かいに建つ傑作です。

建物の中に入った瞬間、②で感じた重苦しさは消え去りました。世田谷区役所との決定的な違いは、光です。大屋根の下に広がるホワイエは、全面ガラス越しに上野の森と繋がっていて、コンクリートの重さがありながら、空間が呼吸している。②では感じられなかった開放感が、ここにはありました。

コンクリートという素材の剥き出し感は残っている。しかしガラスが光を引き込むことで、「閉じた要塞」ではなく「森に向かって開いた空間」になっている。②でコンクリートが体現していた「威圧的な存在感」が、ここでは「人を招き寄せる力」に変わっていました。

そして向かいには、ル・コルビュジエが設計した西洋美術館が建っています。
前川がコルビュジエのアトリエで学んだ弟子であることを知った上でこの配置を見ると、単なる偶然とは思えなくなってきます。実際、松隈氏の同書によれば、前川は東京文化会館の設計において西洋美術館の軒の高さに意図的に揃えています。師匠の建物と同じ目線の高さで、上野の森に向かって並び立つ。

これはコルビュジエへのアンサーなのだろう。
師匠の理念をそのまま移植するのではなく、日本の素材と現実の中で格闘し、コンクリートに限界まで向き合い、その先でようやく辿り着いた自分の答え。①のコルビュジエらしい軽やかさから始まり、②の重苦しいコンクリートの頂点を経た、モダニズムからブルータリズムを通り抜けた先の建物。

そして外壁に目を向けると、その変化がさらに明確になります。コンクリートの表面に、タイルが現れ始めています。建築評論家・藤井正一郎氏はこの変化を『転身』と呼んでいます。コンクリートの冷たさの中に、焼き物の温かみが混ざり合う。前川が「素材に正直であること」の意味を、もう一度深く問い直した場所。それがこの東京文化会館だったのではないでしょうか。

④ 神奈川県立青少年センター(1962年) ——途上

最後に訪れたこの場所、「タイルへの転換」を期待して来たのに、目の前に広がるのは相変わらずコンクリートの大きな塊でした。

上層部は②世田谷区役所と変わらない、重厚な打放しの表情。

しかし同時に、この建物の前に立って、4つの中で一番好きだと感じていました。
ブルータリズムらしい要塞のような重厚感がありながら、直線が積み重なり、どこかすっきりとした潔さがある。コンクリートが剥き出しのまま、言い訳なくそこに立っている。

そしてよく見ると、建物の一部に、濃い赤みがかったタイルが現れています。

全面ではありません。ただ、その部分だけ、明らかに表情が違う。コンクリートの無機質な灰色の中に、焼き物の温かみが混ざり込んでいる。

振り返ってみると、これは「タイルへの転換が完成した建物」ではなく、「転換が始まった建物」なのかもしれません。③東京文化会館でコンクリートの表面にタイルが現れ始め、ここでその比率が少しずつ変わっていく。完全にタイルに覆われる日は、もう少し先の話です。

その変化は、この建物ではまだ途中だった。しかしそのタイルの一部を目の前にして、変化を確かに感じ取れた気がしました。


考察:ラースローと前川、同じ問いと違う答え

4つの建物を歩いて、改めて考えました。

ラースローと前川は、出発点が同じでした。ともにモダニズムの洗礼を受け、装飾を排した「正直な建築」を目指した。そして二人とも、同じ問いと向き合っていた。素材に正直であるとは、どういうことか。

映画の中でラースローがコンクリートを選んだのは、戦後の物資不足という「必然」からでした。鉄や木材が軍需に優先された時代、どこでも手に入る砂や石灰石を主原料とするコンクリートは、安価で効率的な素材だった。その消極的な必然が、やがて「構造こそが存在の証明」という美学へと昇華していった。

日本の前川も、同じ時代に同じ素材と向き合っていました。ただ、前川の問いは少し違った。コンクリートは手に入る。しかしそれを正しく扱う技術が、日本にはまだなかった。
松隈氏の本によれば、当時の日本のRC造(鉄筋コンクリート造)の構造体は欧米の五倍もの重さになってしまっていたといいます。素材の調達ではなく、素材の扱い方そのものが問題だったのです。

だから前川の格闘は、ラースローとは少し異なる場所で始まっていました。
そしてたどり着いた答えも、違いました。

ラースローは、最後までコンクリートを信じ、打ち放しこそが「ベトン・ブリュット」の証明だと信じ抜いた。対して前川は、コンクリートの合理性を出発点としながら、日本という風土の中で「時間に耐える素材」へと到達した。それがタイルでした。

コンクリートは、物理的にも社会的にも、時間に勝てなかった。世田谷区役所の前に立ったとき、そう感じました。一方、前川が選んだ焼き物という素材は、石やレンガと同じように、時間とともに味になる。「素材に正直である」という信念は変わらない。

どちらが正しいのか、私にはわかりません。ただ、その格闘の差を、建物の表面から、その空間を歩くことで感じ取れた。それこそが、この連載の「フィールドワーク」としての意味だと思っています。


次回予告:八王子の森へ

前川國男は、コルビュジエの理念と日本の現実のギャップの中で、素材と向き合い続け、コンクリートの限界に正直に向き合い、タイルへと辿りつきました。

では、同じくコルビュジエに学びながら、全く別の道を歩んだ男はどうだったのか。

吉阪隆正。八王子の丘陵に、重力に逆らうような「逆ピラミッド」を建てた建築家。同じ源流から、なぜこれほどまでに違う建築が生まれたのか。
次回は、八王子大学セミナーハウスを訪ねます。


参考文献 松隈洋『未完の建築——前川國男論・戦後編』みすず書房、2024年
https://www.msz.co.jp/book/detail/09740/

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